永らくご声援をいただき、ありがとうございました

約半年に及ぶ航海を終えホクレアはハワイへ戻り、日々の状況をお伝えしてきたこのウェブログの使命もまた果たし終えたのではないかと思います。自然と人間の力だけで旅を続けるという、伝統的な航海術を再現した今回のプロジェクトに、インターネットを通じて世界中へ瞬時に近況をお届けるというミクスチャーな試みも、チャレンジのひとつでした。永らくご声援をいただき、ありがとうございました。ホクレアの軌跡は当ウェブログに残りますので、ぜひ振り返ってみてください。

7月1日<ホクレアはハワイに戻りました

 ホクレアは今朝、日本郵船会社の貨物船セッツに乗って無事にハワイに戻りました。故郷に戻った彼女はとても美しく見えました。午前9時ごろ、ハワイ・スティヴドアーズ社の巨大なクレーンがホクレアをセッツの甲板から持ち上げ、埠頭に広げられたタープの上のブロックに彼女を下ろしました。

 埠頭には20人ほどのホクレアのクルーが集まっており、すぐに船底に付着した海藻にスプレーを吹きかけて剥離する作業に入りました。11時頃にはクレーンが再び彼女を持ち上げ、懐かしいオアフ島の海に戻しました。それから彼女は曳航されてホノルル・コミュニティ・カレッジ海洋実習センターの基地へと帰っていきました。私たちはこれらの作業を見事に、そして注意深くこなしてくれた日本郵船会社とホノルル港第一埠頭の沖仲士の皆さんに改めて感謝の意を表したいと思います。みなさんの仕事ぶりは次の大きなイベントまでこのウェブログのトップに置いておきますからね。次の大きなイベントは二つ。故カウィカ・カパフレフア船長の遺灰とご遺族をニイハウ島まで送り届ける航海と、ホクレアの乾ドック入り(陸上に船を揚げての重整備のこと)です。

 この2007年の航海に力を貸してくださった全ての皆さんに、重ねてお礼申し上げます。
キャシーより。

(ク・ホロ・マウおよびク・ホロ・ラ・コモハナのデータ)

総航行距離:9570海里(17723.64キロメートル)

所用日数:175日間(2007年1月13日から6月9日まで)

参加舟艇:ホクレア(ミクロネシアおよび日本航海) アリンガノ・マイス(ミクロネシア航海) カマ・ヘレ(ミクロネシアおよび日本航海)

停泊地:マジュロ、ポンペイ、チューク、サタワル、ウォレアイ、ユリシー、ヤップ、パラオ、沖縄、奄美、熊本(宇土)、野母崎、長崎、福岡、新門司、祝島、周防大島、宮島、広島、宇和島、室戸岬、三浦、鎌倉、横浜

船長:ショーティー・バートルマン、ナイノア・トンプソン、ブルース・ブランケンフェルド、チャド・バイバイヤン、チャド・パイション、セサリオ・スウェラルー

航海長:チャド・パイション、ブルース・ブランケンフェルド、ナイノア・トンプソン、セサリオ・スウェラルー、チャド・バイバイヤン

搭乗クルー:130名以上

(サタワル島について)
大航法師でありハワイのナヴィゲーターたちの師、そしてホクレアの初代航海長であるマウ・ピアイルック師の故郷。長さ1600メートル、幅800メートル。マウ師はこの島で船団の到着を待っておられました。そして航海カヌー「アリンガノ・マイス」はこの島で、マウ師に寄贈されました。この船はハワイ島のナ・カライ・ワア・モク・オ・ハワイイが建造したものです。現在のこの船の船長はマウ師の子息であるセサリオ師で、ヤップ島を母港としています。

(ポゥの儀式について)
サタワル島でマウ師は5人のハワイ人と11人のサタワル人のためにポゥの儀式を行いました。これは伝統的な(航法師の修行期間の)卒業の儀式です。この儀式が外部の人間の為に行われたのはこれが初めてのことです。

(お知らせ)
KGMB9テレビはこの航海を取材した1時間のドキュメンタリー番組を8月6日の午後7時より放送する予定です。またハワイに戻ったマイク・テイラー船長によると、カマ・ヘレは機帆走によってハワイに向かっており、ハワイまでの航程の3分の1を走り終えたとのことです。ある晩にはイカが甲板に飛び込んで来てオカズにされたそうですが、クルーが釣り上げた魚はまだマヒマヒ一匹だけのようです。

6月22日<ホクレアは貨物船セッツに積み込まれました。

ホクレア

ホクレアは昨日、日本郵船会社の貨物船「セッツ」に積み込まれました。セッツは日本時間の22日17時に横浜を出航し、来週にもホノルル港に到着する予定です。ホクレアのホノルル到着に合わせてポリネシア航海協会は記者会見を行う予定です。伴走船カマ・ヘレは自力航行によってハワイに戻ることになっています。出航は6月23日の予定です。船長を務めるのはMike Weindlで、その他に5人の日本人がクルーとして搭乗します。

6月17日<カムイノミ

北方のアイヌ・モシリ(北海道島)の住人であるアイヌの代表団がホクレアを訪問し、祈りの儀式(カムイノミ)を行いました。

カムイノミ

カイウラニ・マーフィー、カニエラ・アカカ、レイトン・ツェウがこの儀式に参列しました。この儀式の写真はこちら

(撮影:琢磨仁)

ハロー、マイス

ハロー、マイス。調子はどうだい? 俺たちはお前に乗っていた時のあの興奮が忘れられないよ。お前の速さ、お前の優雅さ、お前の盤石さ。あそこが俺たちの家だったんだよな。

お前が生まれた時のことを憶えてるよ。パパ・マウとマライアと俺で、お前の船体が型から出される所を見ていたんだ。ジェイとミスター・オンガイアスがあれほど慎重だったことは滅多に無いんだぜ。それからお前はカワイハエに運ばれて、お前のオハナに命を吹き込まれたんだ。

お前の進水式のことも憶えてる。風の強い日だったよな。お前は走り出したくてたまらないみたいな顔つきで現れたっけ。風を受けたお前は、心臓に電気ショックを食らったみたいにして目を覚ましたのさ。お前が呼吸を始めた途端に、お前の舫綱は千切れそうなくらいに張りつめたんだ。ショーティーとブギー(ブギー・カラマ氏:ホクレアの初代クルーの一人)、バッファロー(バッファロー・ケアウラナ氏:ホクレアの初代クルーの一人で伝説的なロングボーダー)と俺はその瞬間に理解したよ。お前は目を覚ました、そしてお前は不死身なんだってな。

ホクレアにぴったりくっついてチュークの海に姿を現したお前の姿は、まるで年季が入った母船とその子機みたいだった。俺たちの祖先が使っていた宇宙船さ。

帆を上げた途端、チュークはあっと言う間に見えなくなったよな。俺は久しぶりの航海だったから、それからの何時間かは、海に慣れるのに苦労したよ。お前をちゃんとサタワルまで連れて行かないといけなかったしな。

お前のデッキは広いし余計なものが無いから、フォワード・セイルを扱う時も危なくなかったし、船体の上の睡眠区画に入るのも簡単だったな。きっとお前は救急救命艇としても理想的だと思うぜ。

お前のステアリング・スウィープも良くバランスが取れていて、操作するにも余計な力が要らなかったよな。たまに動かしすぎちまって当て舵が必要になるのはご愛敬だろう。

たまにホクレアが先に行って水平線の向こうに隠れちまったこともあったけど、ショーティーとチャド(パイション)がもう少し帆を広げろと指示を出せば、お前はあっと言う間にとんでも無いとこまで加速したっけ。それでも簡単にコントロール出来るんだから、お前は凄いよな。お前が本気を出したらどれだけ速いのかはまだ誰も知らないんだろうが、とにかくお前の世話をする連中とお前自身の安全が第一だからな。

お前に乗っていたワヒネ(女性)のクルーにも感心したよ。あの5人は俺が今まで見た中でも最高のクルーだな。一緒に航海出来たのは光栄だったよ。みんな謙虚だし、真面目だし、慎重だし、組織というものを解っているし、清潔だし、知的だ。まさにお前に相応しい、最高の人材だったな。ヤップに行く前にポマイが乗ってきた時に俺は思ったんだが、あのくらいのワヒネがあと何人か居たら、あいつらはもっと遠くの島まで行って帰ってこれるはずさ。しかも安全かつ迅速にな。

パパ・マウも、サタワルのカヌーハウスの前の海に停泊したお前を見て喜んでいたよ。お前がサタワル島に着いた日の夜なんかパパ・マウは、俺もこのままお前に乗ってヤップまで行くぞって言ってたんだぞ。

パパ・マウと別れるのは本当に辛かったな。俺たちはパパ・マウのベッドの周りに集まって大泣きに泣いたもんだ。俺たちの涙はパパ・マウの家のセメントの床に染みこんでいった。だから俺達のDNAは永遠にパパ・マウと一緒なんだ。みんなそれぞれパパ・マウと話をしたんだが、俺はどうしても別れの言葉を言えなかった。代わりに俺が言った言葉はこうだ。「パパ、太陽は別れの言葉なんか知らないだろ。太陽はいつもハローって言うだけだ。俺たちはパパを愛してるよ!」そう言って俺はパパの大きなつま先に触れてから、パパの家を後にしたのさ。

俺たちは夕陽に向かって航海を再開した。サタワル島はどんどん小さくなっていった。お前はまた風を受けて目を覚ました。あの時の航海ほど楽しかったことは無いよ。俺はお前のおかげで、海に出るってのがどういうことかを思い出せたんだ。俺たちはどうしても陸地に根を下ろしがちだし、うっかりすると海産物も滅多に食わなくなっちまうんだがな。

お前のことはセス(セサリオ・スウェラルー氏)やエディたちが、ちゃんと面倒を見てくれるだろう。ただし、連中が例の赤いやつ(ビンロウジのこと)をお前の船尾のマヌ(船体の両端のそそり立った部分)より前に吐き出したら、とっちめてやってくれよ。

お前は大事な船だ。またすぐに会いに行くからな。

1976年のホクレアの最初の航海のクルー、キモ・ヒューゴより

翻訳者より:本日、この記事を書かれたキモ・ヒューゴ氏にお会いして「あれは自分からマイスに宛てた手紙なんだ」という説明を受けましたので、実際のヒューゴ氏の口調を可能な限り日本語で再現しながら訳出しました。

謝辞

このウェブログに物語と画像を寄せてくれたクルー、そして数多くの寄港地でホクレア、アリンガノ・マイス、カマ・ヘレと触れ合った人々に感謝いたします。またクルーを励ますコメントを書き込んで下さった方々にも同様に感謝しております。このウェブログは、この航海を最も幅広い形で記録する取り組みであり、またポリネシア航海協会の教育活動の歴史において最も意欲的な試みでした。

ポリネシア航海協会は以下の方々に特別な感謝を捧げたいと思います。

航海のトラッキング・マップを管理してくれたSOESTのマイケル・シンタニとバーニー・キロンスキー両氏。マウ・ピアイルック師とサタワル島、そして5人のハワイ人ナヴィゲーターがミクロネシアの航法師として授戒されたポゥの儀式の素晴らしい写真と記事を書いてくれたサム・ロウ氏。このウェブログを日本語に訳し続け、またこの航海の画像が公開されている日本語のウェブログのリンクを数多く紹介してくれた加藤晃生氏。教育プログラム関係の英日翻訳を担当してくれたリンダ・フジカワ氏及びカピオラニ・コミュニティ・カレッジの学生たち。このウェブログの教育関係のページを運営してくれたイースト=ウェスト・センター・アジア太平洋リーダーシップ・プログラムの人々(ニック・バーカー氏とアイヴィー・クルス、リンダ・フルト、池田恭子、クリスティーナ・クウォウク、ポウリーナ・ユウルピらの学生諸氏)。このウェブログのアイデアとスクエアスペース・ドットコムのドメインを提供してくれたカピオラニ・コミュニティ・カレッジのマリー・ハットリ氏。衛星電話による遠隔授業とハワイ、ミクロネシア、そして日本における学校訪問をコーディネートしてくれたアン・ベル氏。

6月13日<宇和島、魂の帰還

ホクレアの見学に訪れた数多くの人々の中で、何故彼女は特別でありえたのか。そして何故彼女は私を見つけたのか?

私はカマ・ヘレのクルーなので、ホクレアを誰かに見学させるということは滅多にありません。ただ、この日に限って言えば船団のクルーは、私以外の全員が出払っていたのです。私はカマ・ヘレの船内で作業をしていました。その時、誰かが埠頭で呼んでいる声がしたので、私はカマ・ヘレのデッキに上がり、そこでイノウエ・ユカとイムラ・ケイコに会ったのです。イムラ・ケイコはイノウエ・ユカの友人で、仕事が終わってから1時間半も車を運転してホクレアを見に来たのだといいます。二人は私に、ホクレアをバックにして写真を撮ってくれないかと頼みました。

写真を撮ってあげながら話をするうちに、彼女たちが他の見学者とは少し違う存在であることが解ってきました。普通は「日本までどれくらいかかりましたか?」とか「嵐には遭いませんでしたか?」とか「日本はどうですか?」というような質問をされるのですが、彼女たちからはホクレアの使命について、あるいはホクレアが持つ不思議な力について、ハワイ文化とアロハの象徴としてのホクレアについてなどの話題が出てくるのです。実は私もそろそろ他のクルーに合流しなければならなかったのですが、私は直観的に、はるばるホクレアを見にやって来た彼女たちともう少し一緒に過ごす必要があると感じたのでした。

私は彼女たちに、実際にホクレアに乗ってみてはと提案しました。彼女たちはこの伝説的な船に大変な畏敬の念を抱いていたようで、まるで私は彼女たちに聖杯を渡したかのような気分になりました。

後になってユカは、ホクレアに乗り込んだ際には鳥肌が立ち、まるで聖所に足を踏み入れたような気分になったと語ってくれました。彼女たちは1月のホノルル出航以来、毎日このブログを読んでいたのだそうです。そして彼女たちは、ブログを読む中で芽生えたといういくつかの質問を私にぶつけてきました。彼女たちはポリネシア航海協会の使命やホクレアそのもの、あるいは数多くのボランティアについて純粋な興味を持っていました。ホクレアの見学が進むうちに私たちの話題は、2001年にオアフ島沖でアメリカ海軍の潜水艦に沈められ、7人もの犠牲者を出したえひめ丸の事故へと移っていきました。あの事故で亡くなった人々の多くが、この小さな宇和島の町から訓練航海に出ていた水産高校の生徒だったのです。

ホクレアとそのオハナがあの事故の犠牲者の家族に接触したのは、事故発生の直後に彼らがハワイに到着してから、すぐのことでした。ホクレアは彼らが息子たちの為に祈りを捧げられるよう、えひめ丸の沈没地点まで彼らを連れて行ったのです。政府が彼らを同情と敬意をもって遇することが出来ないでいるうちに、ハワイのコミュニティ、特にホクレアのオハナはアロハの精神をもって彼らに手を差し伸べ、彼らが遙か離れた故郷からハワイまで抱えてきた深い悲しみを少しでも癒やせるよう取りはからったのでした。その後、ホクレアとえひめ丸事故の犠牲者の遺族の絆は、ホノルルに建立された慰霊碑を遺族が毎年訪問するごとに強まっていきました。

ユカはこの不幸な事故についてもある程度知っていると語りました。また彼女は、ホクレアが一つの象徴として遺族たちにもたらした癒しと思いやりの重み、そして2年前に交わされた「ハワイの海で失われた魂を宇和島にホクレアが運ぶ」という約束についても知っていました。その時私は、彼女とあの事故にはもっと深い何かの繋がりがあるのではないかと感じました。やがて二人の見学は終わりました。私は、ともかくユカの魂とホクレアの魂が繋がる手助けは出来たのだろうと思いつつ、なおこの出会いにはまだ何か隠された重要性があるようにも感じながら、その場を後にしました。

この夜はナイノアの講演会とジェイク・シマブクロの演奏会がありましたが、それが終わった後、私はロビーに居るユカとケイコの姿を見つけました。ユカは改めてホクレアを案内してくれたことに礼を述べ、機会があればまた会いましょうと言い添えて彼女の電話番号を教えてくれました。さて、私は後日、ユカに電話をかけました。というのも、あの日ホクレアの上で彼女は全てを語ってくれなかったのではないかという疑問があったからです。彼女は、もしも今日の夕方に八幡浜まで来られるのならお会いしましょうと言ってくれました。私は電車で八幡浜に向かい、3人の友人を連れた彼女と再会しました。彼女の友人の一人はウィスコンシン州(アアロン・マダロン=キイ)出身の男性で、日本で英語の教師をしており、今日は通訳として呼ばれたとのことでした。私たちは美味しい夕食を共にし、ホクレアとこのミクロネシア・日本航海について大いに語り合いました。もう夜も遅かったことと、それなりにお酒も入っていたこと(といっても泥酔していたわけではありませんが)があり、私は八幡浜の小さなホテルに泊まって、宇和島には翌朝帰ることにしました。

ユカとその友人たちは私の為にホテルを見つけてくれた後で、もしも明日ある程度時間を作れるのなら、自分たちが住んでいる伊方という村に案内したいと言ってくれました。伊方は人口1万人の美しい小村なのだそうです。私はこの提案を受け、次の日の早朝にユカに合流して伊方に向かいました。伊方は港を取り囲む美しい田舎町でした。埠頭には小さな漁船が並んでしました。これらの漁船はすぐ近くの海で操業することもあれば、魚を求めて単独で韓国付近まで行くこともあるのだそうです。彼女の家は5世代に渡ってこの村で漁業を営んでいるそうで、彼女の父親や叔父、そして従兄弟も漁師なのだと聞きました。

港の周辺を案内してくれた後、ユカは港の前の切り立った崖の上にある小さな集落を指さし、あそこに自分の家があるので家族に紹介すると言ってくれました。私たちは狭く曲がりくねった道を車で抜け、丘を上がって行きました。やがて車はとても眺めの良い場所を通り、彼女の村へと向かいました。私たちは車を駐めた後、入り組んだ狭い路地に入りました。彼女の家は路地の終点にありました。この時点で私は、自分の置かれた状況の困難さに思い至らずにはおれませんでした。とにかく持ち合わせは少ないですし、パスポートも荷物も持ってきておらず、しかも日本語を喋ることも出来ず、それでいて最寄りの交通機関まで最低でも16キロメートルは歩かなければならないのです(アイルランド人としての私の愛嬌の真価が問われる時です)。

私はユカのお母さん(キミコさん)とお父さん(ヒロフミさん)に丁寧に迎えられました。彼女の伯父さんと伯母さんも来ていました。私たちのコミュニケーションは拙いものでしたが、それでも私の訪問が彼らにとって何か重要な出来事であることは理解出来ました。ユカが言うには、私は彼らが実際に見た最初の外国人なのであり、だから私を家に迎えるというのは特別なことなのだそうです。私たちは皆、床に座って会話をしました。通訳をしてくれたのはユカでした。私たちの話題はすぐに、ホクレアやその航海、宇和島寄港の重要性へと移っていきました。彼らは、出来ればホクレアが彼らの村に来てくれればと思っていたのだそうです。ここで私は、この家族とホクレアの日本航海の目的との間で何らかの深い繋がりがあることに気付きました。

と、ユカの伯母のイノウエ・ミナコさんが私の前に膝をつき、むせび泣きながら私に日本語で語りかけてきました。私は彼女を落ち着かせる為、彼女に手を差し伸べ、彼女が平静を取り戻すのを待ちました。その後私は、彼女の一人息子のコウイチロウ氏が昨年の10月に海で行方不明になったこと、彼もまた宇和島水産高校を30年前に卒業した人物であったこと、そして彼もまたえひめ丸でハワイまで来ていたことを知りました(彼の遺体が見つかったのは今年の3月だったそうです)。

2001年に亡くなった若者たちの魂を故郷に送り届けるという使命を帯びたホクレアの寄港は、ミナコにとっては、5ヶ月前に息子を失った悲しみに区切りをつけられるかもしれないという希望でもあったのです。ですが、残念ながら彼女はホクレアを見に来ることが出来ませんでした。そこで彼女は、自分の代わりにホクレアを見てくるよう、ユカに頼んでいたのです。ですから、ホクレアに直接関係する私のような人間が彼女の家を訪れ、ホクレアがその全ての航海を通じて届けようとしている強い癒しと希望のメッセージをもたらすことは、一種の神の召命と言えるのです[訳注1]。今度は私が強烈な鳥肌を経験する番でした。

私は伊方、そして八幡浜を後にしました。私の心は疲労困憊していましたが、同時にこの2日間で経験した出来事に対し、謙虚な気分にもなっていました。キリスト教徒である私はこれらの出来事を、私たちが沢山の贈り物やそれぞれの持つ能力をともに分け合う為に、神が与えてくれた機会なのだと信じています。そしてそれらのものもまた、私たちがそれを必要としていることを知った神が恵んでくださったものなのです。こうした機会は一見些細なことのように見えますが、それを真に必要としている人々に対しては、深甚な影響を与えるものなのであり、そしてまた私たちの理解を遙かに超えた所にあるのです。

今日も人々は絶え間なくホクレアを訪れてはカヌーに見入り、またクルーがホクレアとその使命について語る声に耳を傾けています。そして今の私は、こうしたことの重要性を身に沁みて感じているのです。こうしたことの積み重ねによって、この太平洋に生きる全ての人々の間に橋が架けられていき、いつかそれらが一つに繋がる日が来るのですから。私は、ユカとその家族に深く感謝しています。彼らは私を癒しの運び手として選び、また彼らの人生の仲間として迎え入れてくれました。また私は、この素晴らしい航海の一端を担う機会を与えてくれたホクレアのオハナにも深く感謝しています。

(”アイリッシュ”・マイク・カニンガム記)

訳注1:「神の召命」の原文はdivine appointment。キリスト教徒以外には解りにくい表現であるが、神がキリスト教徒に対して何らかの使命を与えることを意味する。すなわちこの文章は、神がキリスト教徒であるマイク・カニンガム氏に、ミナコ氏の家に行ってホクレアのメッセージを届けよという使命を与えたという意味である。

6月11日<歴史的な航海が幕を閉じました

149日間、7375海里を踏破したホクレアのミクロネシア・日本航海は、6月9日土曜日、横浜港にて輝かしい結末を迎えました。ホクレアが接岸したのは午前11時のことでした。数百人の群衆がブルース・ブランケンフェルド船長指揮するホクレアのクルー、そしてマイク・テイラー船長指揮するカマ・ヘレのクルーを出迎えました。この航海はホクレアにとって初めての西太平洋への航海であり、またポリネシアの外の国々への航海でした。

ホラ貝を最初に吹き鳴らしたのはマイク・テイラーでした。続いて全航程に搭乗した2人のクルーのうちの1人、アトウッド・マカナニもまたホラ貝を吹き鳴らし、ホクレアは最後の寄港地に到着しました。この港は126年前にデヴィッド・カラカウア王が上陸したのと同じ港です。ホクレアに乗り込んでいたカフ・カニアラ・アカカ師が祝福のチャントを唱える中、ホクレアは埠頭に係留されました。埠頭の上ではクム・ケリイ・タウアがクルーを迎え入れるチャントを唱えました。続いて王立カメハメハ騎士団による歓迎の儀式が始まりました。埠頭でホクレアを迎えた騎士団員は4人、そしてホクレアには同じく騎士団員のレイトン・ツェウが乗り込んでいました。彼らはホクレアの到着と1881年のカラカウア王の横浜訪問を祝福しに来たのです。1881年のカラカウア王の横浜訪問は王と明治天皇の関係を確立し、日本からハワイへの移民に繋がっていきました。

この他、埠頭にはハワイ出身で他国に帰化した人々も訪れており、中にはスモウトリの曙ことチャド・ローワン氏や大和ことジョージ・カリマ氏の姿もありました。二人は力士を引退して現在は日本に住んでいます。また日本のフラのハラウや50人ほどの報道陣もやって来ていました。

埠頭での儀式の後は記者会見が行われました。さらに昨日の午後もまた別の歓迎式典が行われ、夜は横浜市主催による歓迎晩餐会がありました。ほとんどのクルーは今週いっぱい横浜に留まり、カヌー見学会や学校訪問、表敬訪問などを行います。

6月16日土曜日には、最終イベントが2時間かけて行われる予定で、これにはリンダ・リングルハワイ州知事、アミィ・ハナイアリ・ギリオム、プカラニ・フラ・ハレ、そしてミイラニ・クーパーのハラウが参加します。

ポリネシア航海協会会長のナイノア・トンプソンは、この航海に参加した200人以上に上るクルー、リーダーたち、何百人ものヴォランティア、航海を応援してくださった方々、この歴史的航海の実現と無事の成功に協力してくださった方々に賞賛と感謝の言葉を贈りました。またトンプソン会長は横浜の人々に対し、この日本航海の成功と8箇所の寄港地で自分たちが経験した優しさは、ホクレアに更なる力を与えてくれたと語りました。ホクレアはこれからもポリネシア三角海域から足を伸ばして人々と触れ合い、それぞれの民族独自のものを讃え合うとともに、お互いが共有する価値観を称揚し、平和と調和を追究する終わりのない努力の中で、地球環境とお互いへの気遣いを推し進めていくことになるでしょう。

6月10日<(無題)

ホクレアとカマ・ヘレの横浜到着によって、5ヶ月、8000海里にも及んだ航海は終了しました。この航海はホクレアという船の世界を押し広げ、新たな物語を生み出しました。

この航海が始まったのは2007年の1月11日でした。ホクレアとカマ・ヘレはホノルルを出航してビッグアイランドのカワイハエへと向かいました。そこからホクレアはマーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦、パラオ共和国に向かうのです。そこはまだホクレアが足を踏み入れたことの無い海域です。ですが、既にホクレアはこれらの海域の人々との文化的・人的な繋がりを築き上げていました。このミクロネシア航海ではマウ・ピアイルグ航法師に贈られる航海カヌー「アリンガノ・マイス」もホクレアに同行していました。アリンガノ・マイスはマウ・ピアイルグ師の功績、すなわち太平洋の人々に彼の航海術を教えることで、伝統的な航海の実践と伝統的な航法術を復活させ、太平洋の航海者たちという一つの家族が生まれるきっかけを作ってくれたことへの感謝の印でした。この船はマウの要望を受け、クレイ・バートルマン率いるナ・カライ・ワア・モク・オ・ハワイイが建造しました。アリンガノ・マイスは、マウが受け継いだ何世紀も前から続く航海の伝統を、マウの一族が彼の故郷であるサタワル島に残していく助けとなることでしょう。

この時のサタワル島訪問では、予期せぬ贈り物をいただくことが出来ました。マウが5人のハワイ人と6人のミクロネシア人にポゥと呼ばれる儀式を行ったのです。これは彼らの知識と経験が航法師に相応しいことを示す儀式です。

6月10日の歓迎式典は、ホクレアとカマ・ヘレが繋留されている埠頭のすぐ近くで行われました。ナイノア・トンプソンは、ハワイからミクロネシアを経て日本へと至る航海の達成の影にあった膨大な努力について語り、この航海に関わった沢山の人々の名前を挙げて感謝の意を表しました。彼はまずマウの名前を挙げ、次に船長たち、クルーたち。航海や文化交流や教育の面で協力してくれた専門家たち。ハワイや各寄港地で力を貸してくれた人々。この航海において訓練を積み、今後の航海を担っていくことを誓った人々。この航海ではおよそ260人の人間が船団のクルーとなりましたが、船団の航海を支援した人間は少なくともその5倍は居るだろうとナイノアは語りました。また彼は、この航海の計画と訓練は5年前から始まっていたとも強調しました。

ナイノアによると、この航海はそもそも1881年のデヴィッド・カラカウア王の横浜訪問と、それをきっかけとして両国の間で始まった様々な試みに再び光を当てるものとして計画されたのだそうです。カラカウア王の横浜訪問後、ハワイの若者が日本に留学したこともありましたし、日本人のハワイ移民も始まりました。日本人移民はハワイ社会に夥しい貢献を行いましたし、異なった民族的出自を持つ人々が相互に協力しあう状況も生まれました。

また彼は、この航海が予想外の贈り物、想像も出来なかった贈り物を私たちにもたらしてくれたとも語りました。彼はそれらの贈り物を数え上げ、集まった人々に感謝の意を表しました。

まず彼がそうした贈り物の例として挙げたのは、日本の島々や森林、海の並はずれた美しさを経験出来たことです。日本の島々の美しさは、ハワイ諸島というこれも美しい島々に住むナイノアでさえ羨むものでした。

また、日本では伝統文化や文化遺産、祖先が大切にされていることにも、彼は感銘を受けたといいます。日本では神聖な土地が保存されているだけでなく、1000年もの歴史を持つ寺院に泊まることさえ出来るのです。今日こうしたものたちが保存されているということは、何世代にも渡る人々が、こうしたものを守る為に力を尽くしてきたことの証拠なのです。

また、長崎や広島や宇和島の人々が怒りと悲しみを乗り越え、癒しを目指して生きておられる姿に触れられたことも、望外の幸福でした。長崎や広島がいかにして原爆による荒廃から復活し、世界中の他の都市と較べても安全かつ健康な都市として蘇ったのか、またえひめ丸の犠牲者のご家族がいかにしてホクレアに手を差し伸べ、文化交流と相互理解を樹立しようとされたかを知ることが出来たのは、私たちが手にした贈り物の一つだと言えます。

世界平和の為に活動しておられる方々の力強さや清澄さに触れることが出来たのも、また贈り物の一つでしょう。原爆の火をチャド・バイバイヤン船長に渡し、戦争の火の象徴としてそれを鎮めてくれるよう申し出た祝島の人々。また泰平寺の平和の鐘のミニチュアをナイノアに渡し、それを鳴らしてもらえないかと申し出た宇和島の人々。泰平寺の鐘は冷戦が頂点に達した時、それを諫める為にフルシチョフとジョン・F・ケネディに贈られたものと同じものです。

各寄港地でクルーを迎えた人々の寛容さ、親切さ、アロハの心ももちろん贈り物の一つでした。

歓迎式典に参加してくれた子供達の姿も贈り物でした。あるグループはホクレアの為にメレ(歌舞音曲のこと)を披露してくれました。ある高校は太鼓を演奏してくれました。ナイノアは、彼らの中に威厳と誇りを感じたといいます。ナイノアは世の中の全ての子供達が、これらの子供達と同じように、それぞれの選んだ道を歩む中で慈しまれ、また強く清潔に、そして規律を持って生きるよう教えられることを願うと述べました。

この航海の中でさらに大きな希望と夢が生まれたことも、贈り物でした。ホクレアの日本への航海は「我々の文化の外部」へとホクレアを向かわせるものでした。この航海には、実行してみなければどうなるか解らない部分もありました。しかしハワイと日本の価値観の間には、本質の部分で共通するものがあったのです。クルーはどこの土地でも温かく迎えられました。この共通の価値観の存在を知ることが出来たナイノアは、とても喜んでいました。この日本航海の経験は、ホクレアがさらに航海を続けるべきであることを、改めて示唆しています。これまでに訪れた土地、そして今だ訪れていない土地を巡り、文化の架け橋となり、ホクレアが象徴する価値観を押し広げ、あるいは再確認してゆくのです。いたわりの心をもつこと、環境を保護すること、文化と伝統を守り伝えること、子供達に気を配ること、長老を敬い祖先を尊重すること、引き裂かれたものたちを癒すこと、世界平和を推進することです。

6月9日<船団は横浜に入港しました。

船団は横浜のぷかり桟橋に接岸しました。正確に午前11時。これは歓迎式典に合わせた為です。ブランケンフェルド船長は弱い風の中、素晴らしい手際でホクレアを帆走させ、伴走船の助けを借りずにホクレアを接岸させました。11時きっかりの接岸について聞かれたブランケンフェルド船長はにっこり笑い、時間通りの出航と入港は日本人から習ったものだと答えました。足摺岬を交わした嵐の夜以降、船団は好天に恵まれてここまでやって来ました。

船団が横浜港に入っていく際には、支援者たちが乗った船が8艘もこれに付き添った他、ヤンマー社から派遣された船と横浜港当局の船も、それぞれ1艘が船団に同行していました。さらには2機の報道ヘリコプターも現れ、船団の頭上を旋回していました。

新たに開発されたみなとみらい21地区の海岸沿い、ぷかり桟橋の周辺には何百人もの群衆が鈴なりになっていました。ホクレアは、黒いスーツの上に赤と黄色のケープを纏った王立カメハメハ1世騎士団の代表たちに迎えられました。またホクレアにも騎士団員であるレイトン・ツェウが乗っており、彼はチャントを唱えた後に1881年のデヴィッド・カラカウア王の訪問と今回のホクレアの訪問の関係について語りました。またツェウは、このホクレアの訪問は過去を懐かしむ為のものではなく、未来を見据えたものなのだと指摘し、ハワイと日本の関係がさらに深化することを願うと述べました。またポリネシア航海協会の渉外担当者としてホクレアに乗り込んでいたカニエラ・アカカもチャントの詠唱を行いました。続いては二つの日本のフラ・ハラウがフラを披露し、最後に横浜港当局からも歓迎の挨拶がありました。

船団は石廊崎を交わして相模湾に入り、伊豆大島と利島を越えました。午後のことでした。ここで私たちは、紀伊水道で経験したよりも多くの船に遭遇しました。水平線上のどこを見ても何らかの船が見えており、それらの船は合計で1ダースにもなりました。ホクレアのクルーは、この海洋国家の海を行く船の多彩さとその数に驚かされ続けています。ちなみに、船足の速い漁船がわざわざ針路を変えてこの海域に初めて現れたハワイの航海カヌーを観察に来たことも、2度ありました。海鳥の群れと一緒にイルカの群れが現れたことも2度ありました。あれはミズナギドリだったでしょうか?

船団が相模湾に入ったのは2日前のことで、私たちは三浦半島の先端にある三崎という小さな漁港に入りました。その翌日、船団は北の鎌倉へと向かい、ビッグ・ウェーヴ・ライダーであり釣りの達人でもあったタイガー・エスペリの功績を称えました。

その日のホクレアの船上にはルイ・カニナウ=カベベ氏の姿もありました。彼はタイガー氏の弟で、日本の為に航海カヌーを建造するという故人の夢を引き継いで活動しておられる人物です。船団は七里ヶ浜の沖に停泊しました。この一帯は湘南と呼ばれています。船団を出迎えたのは2台のジェットスキー(ブライアン・ケアウラナがこれを紹介したのだそうです)、50人から60人ものサーファーやパドルボーダー、6艘のアウトリガー・カヌーでした。ルイはホクレアの上でチャントを唱え、また海岸ではタイガー氏が創設して現在は中富ミサ氏が指導しているハラウが、やはりチャントを唱えて踊りました。ホクレアが鎌倉を訪問し、人々がそれに動かされて航海カヌーを建造すること、それがタイガー氏の夢だったといいます。ルイによれば、タイガー氏にとってカヌーとは単なるモノではなく、霊的な存在でもあったのです。

6月7日<船団は相模湾に入りました。

船団は昨日の午前1時30分に室戸岬港を出港し、正午までに紀伊水道を渡りきりました。海上の交通量は予想されたほど多くありませんでしたが、日中に通過することでやはり安全性は高まりました。この区間のハイライトは小さな鯨が群れをつくっているのを目撃した瞬間でしょう。

潮岬では船団は串本の町と大島を結ぶ橋の下を通過しました。串本は漁業を中心とする小さな町でした。私たちは養殖用の大きな籠を引いていくボートなども目撃しました。町の沖を通過する際、私たちは橋杭岩という有名な海岸線を後ろから見ることが出来ました。これは橋桁の岩という意味で、たしかに橋の残骸に見えるのです。

船団は一晩中そして日中もひたすら航行を続け、午後3時には伊豆半島の石廊崎に到達、そこから相模湾に入って利島と伊豆大島という、沖合にある二つの火山島を超えました。相模湾に出入りする船の量は紀伊水道より多く、1ダースほどの船や漁船がそれぞれ違う方向へと進んでいるのが見えました。イルカの群れにも2度遭遇しました。ミズナギドリの群れも何度か見かけました。わざわざ針路を変えてこちらに近づいて来て、歴史上初めて相模湾に現れたポリネシア式航海カヌーを観察していった漁船も2艘ほど居りました。

日没は7時でした。気温が下がってきたので皆、防寒着を身に着けました。クルーは全員、元気にやっています。

船団は6月9日に横浜みなとみらいのぷかり桟橋に到着する予定ですが、その前に鎌倉を訪問してタイガー・エスペリの日本での業績に敬意を表することになっています。

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